30代前半あたりまではずっと
実存的とでもいうべき
そんな会話が好きだった
漠然とした悩みだとかちょっとした引っかかりだとか
そんな言葉にしにくいものを言葉にし合う
その過程にロマンを感じていた
世界の深部への通路が開ける気がした
逆に世間話や軽い立ち話といったものは
それこそまったくのくだらないものだと
そう信じて疑わなかった
でもホント、不思議だね
38歳のいまはむしろそれが逆になってる
くだらないとはもちろん思わないし
いまも若い子とたまにそんな話になることもある
でも基本線は、こう
人生についてそんな重苦しく考えたって、仕方ないー
深く考え込んで答えを出したと思っても
1週間もすればいつの間にかまた心変わりしてる
そんなことを100回くらい繰り返して
僕はついに(ようやくにして)学習した
少なくとも僕という人間は
単一の意味めいたものに寄りかかることはできないのだと
振り返れば、何か隠された解めいたものを
ずっとずっと探し続けていたような気がする
でもそんなものはおそらくないのだと気づくと
くだらなかったささやかなものたちが眩い輝きを放ち始めた
あるいはこれらすべてが解なのかもしれないとすら思った
どうすればもっと先輩を笑わせられるだろう?なんて
かつての自分からすれば笑ってしまうようなそんなことを
働き終え帰ったアパートでニヤけながら考える時間が愛おしい
今日もまた何かが起こる
昼食時のささやかな会話での同僚の声が
この人生というものへの祝福の鐘の音に聴こえる
今日はもっと楽しく、即興的に行こうか!
じゃあ明日はちょっぴり大人な、落ち着いたトーンで?
冬の5時半の外はいまだ暗いけれど
この胸はすでに晴れやかな夢に満たされている
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